戦後フランスの舞台美術では、多くの革新的なデザインが生み出された。リシャール・ペデュッツィは、パトリス・シェロー演出による The Massacre at Paris(1972)で、高い建物に囲まれた空間を血のような赤い液体で満たし、その下に移動式のプラットフォームを設置するという大胆な舞台を作り上げた。シェローはリアリズムと象徴的表現を融合させた演出で知られ、ペデュッツィとのコラボレーションを通じて、舞台空間の新たな可能性を追求した。
また、イヴ=ボナはブリュッセルのモネ劇場での Carmen の舞台美術を手がけ、闘技場のような空間にキャノピーを設置することで、開放的かつ象徴的な雰囲気を作り出した。ジャック・ノエルはイヨネスコの Le Piéton de l’Air(1963)のために、主人公が空中散歩をするような曲線的な空間をデザインし、抽象的な演出に貢献した。
中でも最も影響力を持ったのは、1964年にアリアーヌ・ムヌーシュキンが設立した「太陽劇団(Théâtre du Soleil)」である。彼女は、従来の演出家や技術者の役割を超えた平等な創作環境を目指し、集団創作の形態を確立した。劇団の代表作の一つである 1789(1970年代)は、革命をテーマにした歴史劇で、俳優たちは道化師や見世物師のように振る舞い、観客も舞台空間に立ち入る形で参加する没入型の演劇体験を生み出した。
1980年代には、ムヌーシュキンはシェイクスピアの歴史劇 リチャード二世 や ヘンリー四世 を上演し、日本の侍文化を取り入れた衣装や演出を採用した。この舞台美術を手がけたのが、長年彼女の右腕として活躍したギー=クロード・フランソワである。彼は1990年代のギリシャ悲劇 Les Atrides でも、インドの伝統舞踊カタカリを取り入れた様式を用い、作品のヴィジュアルを国際的なものへと拡張した。これらの作品は大成功を収め、ヨーロッパやアメリカを中心に広くツアー公演が行われた。
フランソワは、20世紀末のフランスの舞台美術について「もはやフランス独自のスタイルはなく、さまざまな国の影響を受けたハイブリッドなものになっている」と述べている。この言葉は、舞台美術が国際的な影響を受けながら進化し、多様なスタイルが共存する時代に突入していたことを示している。