1920年代初頭、アメリカの舞台美術デザイナーの地位は劇的に変化し、彼らは芸術的な認識を求めるようになった。その主な武器となったのは、彼ら自身の労働組合の結成であり、それは1925年に正式に認められた。長期にわたる交渉の末、デザイナーとプロデューサー双方が合意した契約により、舞台美術デザインは他の専門的な工芸職と同等の立場を獲得した。この契約は、デザイナーの仕事に対する標準的な報酬体系を確立し、さらに大きな勝利として、一度受理された舞台美術デザインにプロデューサーが変更を加えることを禁じた。
「デザイナーたちはまた、プログラム上での公的な認識を求め、デザイナーの名前をキャスト一覧の上に掲載し、『靴職人や帽子職人の中に埋もれさせない』ことを要求した」(ラーソン、73ページ)。この結果、プロデューサーはデザイナーの仕事の価値を認めざるを得なくなった。1925年に結成されたこの組合は、「その後の世代の舞台美術デザイナーにとって基準となる卓越した水準を確立した」(ラーソン、72-73ページ)。
新しい組合には、ノーマン・ベル・ゲデス、ロバート・エドモンド・ジョーンズ、ジョー・ミールジナー、リー・サイモンソンのほか、ボリス・アニスフェルド(1879-1973)、アライン・バーンスタイン(1880-1955)、ミリア・ダヴェンポート(1895-1992)、プラット、ウッドマン・トンプソン(1889-1955)、クレオン・スロックモートン(1897-1965)らが参加した。 1925年に獲得されたこの認識は、その後、照明、衣装、音響といった舞台美術の専門分野を正式に認める形で発展していった。組合への加入は、厳格な試験に合格し、会費を支払うことでのみ認められた。